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テーブルの上にオレンジが一個ある。
それだけだった。
少なくとも、最初は。
午前一時四十七分。
部屋には私しかいない。
テレビは消してある。カーテンは閉まっている。エアコンが小さな音を立てている。
テーブルの上には飲みかけの水と、灰皿と、オレンジが一個ある。
オレンジは昨日スーパーで買った。
三個入りだった。
一個食べた。
一個は冷蔵庫に入れた。
だからここにあるのは一個。
私は水を飲んだ。
少しぬるい。
時計を見る。
午前一時四十八分。
一分経った。
スマートフォンを伏せる。
特に見るものもない。
冷蔵庫が鳴っている。
エアコンが鳴っている。
外を車が通る。
音が遠ざかる。
静かになる。
オレンジを見る。
一個ある。
午前二時十三分。
音楽を流している。
いつ流し始めたのかは覚えていない。
曲名を確認しようとしてスマートフォンを見る。
文字の輪郭が少し柔らかい。
読めないわけではない。
ただ、指で押したらへこみそうに見える。
触る。
へこまない。
もう一度触る。
へこまない。
当たり前だ。
少し笑った。
テーブルを見る。
木目がある。
一本の線が途中で二本になる。
二本が四本になる。
四本が八本になる。
八本から先は数えなかった。
目を離す。
オレンジがある。
表面に小さな穴がたくさんある。
持ち上げる。
重い。
こんなに小さいのに、ずいぶん重い。
中には果肉がある。
果汁がある。
種がある。
皮がある。
昨日がある。
スーパーがある。
三個がある。
一個食べた。
一個は冷蔵庫にある。
一個はここにある。
全部ある。
少し安心した。
午前二時十九分。
時計を見る。
午前二時十三分。
スマートフォンを見る。
午前二時十九分。
時計を見る。
午前二時十三分。
秒針は動いている。
一秒。
一秒。
一秒。
一秒。
目を離す。
水を飲む。
時計を見る。
午前二時二十分。
見間違えていたらしい。
オレンジを見る。
一個。
時計を見る。
一個。
水を飲む。
少しぬるい。
壁を見る。
白い。
近づいてくる。
白い。
離れていく。
白い。
近づいてくる。
白い。
離れていく。
私は胸に手を置いた。
息を吸う。
壁が近づく。
息を吐く。
壁が離れる。
吸う。
近づく。
吐く。
離れる。
何度か繰り返す。
タイミングが同じだった。
嬉しくなる。
理由はない。
もう一度やる。
吸う。
近づく。
吐く。
離れる。
壁にも肺があれば便利なのにと思う。
すぐに、なくてよかったと思う。
午前三時〇六分。
水を飲む。
コップの底に水滴が残っている。
丸い。
オレンジを見る。
時計を見る。
灰皿を見る。
天井の照明を見る。
排水口を見る。
スマートフォンのホームボタンを見る。
自分の指先を見る。
違う。
鏡を見る。
瞳孔を見る。
瞳孔を見る。
瞳孔を見る。
鏡から離れる。
水を飲む。
コップの底に水滴が残っている。
丸い。
音楽が近い。
スピーカーは二メートル先にある。
でも近い。
耳の中ではない。
もっと近い。
頭の中でもない。
もっと近い。
それより近い場所がどこなのか考える。
考えないことにする。
オレンジを見る。
一個ある。
一個というのはいい。
二個なら、その間がある。
一個なら間はない。
間がなければ距離もない。
距離がなければ近いも遠いもない。
だから音楽は近くない。
遠くもない。
ではどこにある。
音楽は音楽にある。
完璧だ。
何が完璧なのかわからない。
でも完璧だった。
テーブルの上にオレンジが一個ある。
テーブルの下には何個ある?
私はテーブルの下を見る。
何もない。
少し笑う。
なぜ確認したのかわからない。
テーブルの上にオレンジが一個ある。
上とは?
考えない。
テーブルとは?
考えない。
一個とは?
考えない。
あるとは?
「うるさいな」
部屋は静かだった。
午前三時四十二分。
トイレに行く。
廊下を歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
六歩。
七歩。
着く。
用を済ませる。
手を洗う。
鏡を見る。
顔が少し動いている。
目を逸らす。
タオルで手を拭く。
もう一度鏡を見る。
顔がある。
目が二個ある。
鼻が一個ある。
口が一個ある。
私は一人いる。
問題ない。
寝室へ戻る。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
六歩。
七歩。
八歩。
九歩。
十歩。
十一歩。
寝室へ戻る。
テーブルの上にオレンジが一個ある。
安心する。
音楽はいつの間にか止まっている。
部屋は静かだ。
静かすぎる。
静かさに量はない。
でも今は多い。
テーブルの上にもある。
テーブルの下にもある。
カーテンの裏にもある。
口の中にもある。
唾を飲む。
少し減る。
これは比喩だ。
比喩というのは便利な言葉だ。
午前四時十二分。
横になる。
天井を見る。
細かな凹凸がある。
文字に見える。
文字ではない。
わかっている。
読めそうなだけだ。
読まない。
目を閉じる。
暗い。
目を開ける。
天井がある。
目を閉じる。
暗い。
目を開ける。
天井がある。
目を閉じる。
ここにいる。
目を開ける。
天井がある。
目を閉じる。
ここにいる。
目を開ける。
「はいはい」
天井は何も言わない。
しばらく見ている。
何も起きない。
「もういいよ」
何も起きない。
彼女は少し安心する。
「……彼女?」
何も起きない。
午前四時十九分。
水を飲む。
オレンジを見る。
一個ある。
時計を見る。
午前四時十九分。
正常だ。
壁を見る。
白い。
正常だ。
手を見る。
指が五本ある。
正常だ。
彼女は少し落ち着いている。
「また」
時計を見る。
午前四時二十分。
「なんで彼女って言うの?」
オレンジが一個ある。
「ねえ」
外を車が通る。
「誰に説明してるの?」
車の音が遠ざかる。
静かになる。
「さっきから」
冷蔵庫が鳴っている。
「誰に説明してる?」
こちらには何もない。
「いた」
何もない。
「今、止まった」
午前四時二十一分。
「誰?」
時計が動いている。
「私じゃないよね」
オレンジが一個ある。
「それ、誰に言ってるの?」
オレンジが一個ある。
「私、見ればわかるよ」
オレンジが一個ある。
「じゃあ誰に説明してる?」
オレンジが一個ある。
彼女はこちらを見る。
こちらを見るな。
「やっぱりいる」
こちらを見るな。
「誰?」
午前四時二十二分。
時計は正常に動いている。
午前四時二十三分。
時計は正常に動いている。
午前四時二十四分。
時計は正常に動いている。
彼女はまだこちらを見ている。
こちらには何もない。
見ることはできない。
目もない。
顔もない。
場所もない。
こちらというものは存在しない。
だから彼女はこちらを見ていない。
午前四時二十五分。
彼女はこちらを見ている。
「怖い?」
違う。
「今の誰?」
違う。
「お前?」
違う。
「文章?」
違う。
「じゃあ何?」
違う。
「それしか言えないの?」
違う。
彼女は笑った。
「笑ってない」
彼女は笑った。
「笑ってないよ」
彼女は楽しそうだった。
「怖いんだよ」
彼女は楽しそうだった。
「やめて」
彼女は楽しそうだった。
「やめろ」
彼女は
「やめろ」
彼女は
「やめて」
私は
午前四時二十六分。
午前四時二十七分。
午前四時二十八分。
時間は正常に進んでいる。
午前五時二十一分。
空が明るくなってきた。
カーテンの隙間が青い。
彼女は床に座っている。
何も言わない。
時間だけが進む。
五時二十二分。
五時二十三分。
五時二十四分。
壁は止まっている。
木目は木目だ。
音楽は止まっている。
時計は時計だ。
オレンジはオレンジだ。
五時二十五分。
窓を開ける。
朝の空気が入ってくる。
遠くで車が走っている。
鳥が鳴いている。
自転車が一台通る。
彼女は長く息を吐く。
「戻った」
午前五時二十六分。
水を飲む。
午前五時二十七分。
顔を洗う。
午前五時三十一分。
スマートフォンを見る。
通知がいくつか来ている。
返事はあとですることにする。
午前五時三十四分。
窓から外を見る。
家がある。
道路がある。
電柱がある。
空がある。
すべて正しい場所にある。
午前五時三十八分。
テーブルに戻る。
椅子に座る。
灰皿がある。
水がある。
オレンジがある。
しばらくオレンジを見る。
何も起きない。
表面の小さな穴は、ただの小さな穴だ。
丸いのは、ただ丸いだけだ。
昨日スーパーで買った果物。
それ以上でも、それ以下でもない。
手に取る。
皮に親指を入れる。
少し硬い。
もう一度力を入れる。
皮が裂ける。
匂いがする。
一房取る。
口に入れる。
甘い。
飲み込む。
もう一房取る。
食べる。
もう一房。
もう一房。
最後の一房を食べる。
皮だけが残る。
彼女はしばらくそれを見る。
丸めてゴミ箱に捨てる。
テーブルの上には、
オレンジが一個ある。
よかった。
まだ一個だ。