情景
歩道橋の上から見ると、この町には思っていたよりたくさんの窓があった。
十二階建てのマンションの、上から三番目。
青白い明かりがついている。
その隣は暗い。
もうひとつ隣には、黄色いカーテンが見える。
誰かが起きている。
そう思った。
国道を、白いトラックが通った。
濡れた道路をタイヤが擦る音がして、歩道橋の真下を通る瞬間だけ、それが大きくなった。
荷台には何も書かれていなかった。
午前四時十二分。
腕時計を見る必要はなかった。
向かいのコンビニの時計がそう言っていた。
店内には店員がひとりいた。
客はいない。
自動ドアの前に、新聞の束が積まれている。
さっき搬入されたばかりなのだと思う。
新聞のいちばん上だけが風で少しめくれていた。
歩道橋の階段の下に、片方だけの靴が落ちていた。
黒いスニーカーだった。
紐は結ばれたままだった。
あれを履いていた人は、どうやって帰ったんだろう。
そんなことを考えた。
別に知りたいわけではなかった。
ポケットに手を入れる。
何もない。
反対側も探す。
何もない。
何かを持ってきたような気がした。
鍵だったかもしれない。
煙草だったかもしれない。
携帯だったかもしれない。
でも、どれも必要ではなかった。
ここから動くつもりはなかったから。
誰かを待っていた。
たぶん。
四時二十七分。
信号が赤になった。
車はいない。
それでも信号は律儀に赤になり、しばらくして青になった。
また赤になった。
その繰り返しを三回見た。
マンションを見る。
上から三番目の窓には、まだ明かりがついている。
黄色いカーテンがある。
あれ。
黄色だっただろうか。
考えているうちに信号が青になった。
白い車が一台通った。
水を踏んだ。
その音だけが妙に近かった。
階段の下を見る。
靴がある。
紐は結ばれている。
風が吹いた。
歩道橋の金属が冷たくなった。
手すりに置いていた手を離す。
掌に錆の匂いがついた。
嗅いだことのある匂いだった。
どこで嗅いだのか考えた。
思い出せなかった。
でも、それで困ることはなかった。
向こう側に人が立っていた。
いつからいたのか分からない。
歩道橋の反対側。
階段の手前。
こちらを見ているようにも見えたし、道路を見ているようにも見えた。
暗くて顔は分からない。
声をかけようとは思わなかった。
向こうもそうだった。
信号が変わる。
赤。
青。
赤。
もう一度見る。
人はいなかった。
階段を降りたのだろう。
少し明るくなった。
マンションの輪郭が見える。
窓が並んでいる。
ひとつだけ明かりがついている。
誰かが起きている。
そう思った。
なぜそう思ったのかは分からない。
道路を車が通った。
音がした。
それから、また静かになった。
足元を見る。
何か落ちている。
黒いものだった。
暗くてよく見えない。
拾う必要はないと思った。
待っている。
誰を。
風が吹いた。
信号が赤になった。
待っている。
青になった。
何を。
マンションを見る。
窓がある。
たくさんある。
そのうちのひとつを、さっきから見ていたような気がする。
どれだっただろう。
上から数えた。
途中でやめた。
空が薄くなってきた。
夜の黒に、ほんの少しだけ灰色が混じっている。
鳥の声がした。
一度。
もう一度聞こえるのを待った。
聞こえなかった。
道路がある。
向こうに建物がある。
信号がある。
光が変わる。
何かが通る。
音がする。
それだけだった。
どうしてここにいるんだろう。
そう思った。
それは、ずいぶん久しぶりに浮かんだ疑問のような気がした。
答えを探そうとした。
けれど、何を探せば答えになるのかが分からなかった。
ポケットに手を入れた。
何もない。
反対側も。
何もない。
最初から何も持ってこなかったのかもしれない。
空を見る。
夜ではなくなっている。
朝でもない。
その間にいる。
もう一度、向こうを見る。
何かあった。
そう思った。
何だっただろう。
歩道橋にいた。
何を見ていたのかは、もうない。
ただ、朝になりかけていた。