メス

大型メスカマキリ 捕食シーン

ひどい頭痛にうなされながら目を覚ますと、目の前に巨大な瞳があった。

濡れた黒い複眼。

部屋より大きい。夜より丸い。表面を埋め尽くす無数の個眼が、月明かりを細かく砕いていた。その中央に黒い偽瞳孔が浮いている。

私が動くと、ついてくる。

右にも。

左にも。

追っているのではない。

ずっと、最初から、どこへ動くか知っていた。

大型のメスカマキリだった。

翅は濡れた薄絹のように腹部へ畳まれ、長い胸部がゆっくりとしなる。膨らんだ腹は重そうで、呼吸のたび、節と節の間がわずかに開いた。

メスだ。

見ればわかる。

何がどうだからメスなのか説明しようとすると、頭の中で声が増える。

腹が重いから。
翅が短いから。
食べる側だから。
待っている側だから。
違う。
全部違う。
メスだからメスなのだ。

その事実だけが、暗闇の中で妙に艶めいていた。

彼女は鎌状前脚を胸元に折り畳み、祈っているような姿勢で私を見下ろしている。

祈ってなどいない。

祈られているのは私だ。

違う。

捧げられているのが私だ。

ギチ。

口器が鳴った。

ギチチッ。

大顎の内側で、小顎肢が柔らかく探るように動いている。噛むための器官なのに、まだ噛まない。その「まだ」が色っぽかった。

今すぐ食えるのに、食わない。

食う場所を選んでいる。

彼女は首を、カク、と傾けた。

黒い偽瞳孔が複眼の表面を滑る。

もう一度、反対へ。

カク。

視線というものを持たないはずの目に、全身を撫でられている。

見られているのではない。

測られている。

柔らかさ。
温度。
まだ動くか。
どこからなら静かになるか。

その一つ一つを、何万もの個眼が相談している。

相談の声が聞こえる。

食べられる。
食べられる。
ここは食べられる。
ここも食べられる。

違う。複眼は喋らない。

では誰が言った。

「助けて」

自分の声がした。

私は言っていない。

「助けて」

また声がした。

今度は口が動いた気がする。

彼女の触角がこちらへ倒れ、私の声に触れた。聞いてくれたと思った。

一瞬だけ、助かると思った。

メスカマキリは首を傾ける。

カク。

ギチチッ。

それだけだった。

猛獣なら、まだ懇願を恐怖として受け取るかもしれない。人間の声の中にある、死にたくない、を嗅ぎ取るかもしれない。

虫には通じない。

彼女にとって「助けて」は言葉ではない。

餌が鳴った。

餌が震えた。

餌がまだ新しい。

それだけの報告だった。

棘の並んだ鎌状前脚が、私の身体を左右から抱き直す。細いのに逃げられない。力を込めた様子すらない。ただ、そういう形に閉じるよう作られている。

抱かれていると思った。

捕まっている。

抱かれている。

捕まっている。

どちらでも同じだった。彼女の胸部が近づき、複眼が視界の端まで膨らんだ。私の姿が、何万個にも割れて映っている。

彼女の瞳の中でだけ、私はたくさんいる。

現実には一人しかいないから、一度食われれば終わる。

それなのに安心した。

彼女は逃げない。

私を置いていかない。

食べ終わるまでは、絶対に。

ギチ。

ギチチッ。

口器が顔のすぐ前で開閉する。

生暖かい匂いがした。青臭い植物と、湿った土と、何かをすり潰したあとの甘い匂い。

「食べないで」

ようやく自分で言った。

彼女は、いっそう近くまで顔を寄せた。

通じた。

通じていない。

通じたから近づいた。

違う。

声が振動だったから、その発生源を確かめに来ただけだ。

巨大な複眼が世界を塞ぐ。

頭痛が脈を打つたび、偽瞳孔が増えた。

二つ。

四つ。

八つ。

全部が私を見ている。

ああ、食われる。

ああ、食われるのに。

綺麗だと思ってしまった。

メスカマキリはまた首を傾けた。

カク。

その仕草だけが、ひどく女らしく見えた。

女ではない。

女であるはずがない。

それでも、私を食べるものがメスであることだけが、なぜか救いのように思えた。

「助けて」

最後にもう一度言った。

ギチチッ。

助けて、が会話として届く距離ではなかった。

近すぎるからではない。

遠すぎるからでもない。

彼女の世界には最初から、助けて、に対応する意味がない。

あるのは、動くもの。

捕らえる脚。

噛み砕く口。

そして、食べられる私。

彼女の大顎がゆっくりと開いた。

私はそれを笑ったように見た。

眠っていない脳は、何にでも表情を見つける。

だからたぶん彼女は笑っていない。

笑っていないまま、私を選んだ。